
かつて矢田川河口に位置する「大野湊」を擁し、知多半島の玄関口のひとつだった常滑市大野町。世界最古の海水浴場「大野海岸」で知られるが、鎌倉期より三河から伊勢へと向かう道の重要な中継地として栄えたところだ。多くの仏閣、古くからの旅館が立ち並ぶ街並みに、海運で栄えた往時の面影を見ることができる。その一角に雰囲気たっぷりに佇むのが創業130年になる老舗旅館「恩波楼」。新美南吉の小説に因んで「おじいさんのランプの宿」とも呼ばれている。三代目ご主人、加藤勝彦さんの生まれ育った知多半島、大野への思いは優しく深い。
和風情緒たっぷりの旅館の部屋の中。客の夕食がテーブルに並ぶころ、加藤さんの数分間の口上が始まる。旅館を訪れた客に、明治時代に描かれた大野の絵や地図を示しながら、昔の潮湯治や大野の様子、12世紀にここを訪れ大野を詠んだ鴨長明の和歌の話などを淡々と語る。穏やかな語り口だ。
「大野のいろんなことを聞いて欲しいんですよ。たくさんの大野、知多を知って味わって帰って頂きたいんです」。
夕食に供されるのは加藤さん自身の手になる「浜薬師膳」。800年前に揖斐川から伊勢湾の潮の流れに乗って大野に漂着し、すぐ近くの海音寺薬師堂に祀られている「浜薬師」に由来している。知多の新鮮な山海の素材を使い、京の雅を織り込んだ人気の献立だ。この旅館の定番となった。加藤さんの語りを聞いた客に「浜薬師膳」はひときわ味わい深い夕餉となる。
「常滑は空港ができたこともあって全国的に知られるようになりましたが、もっと多くの人に来てもらいたいですね。やきもの散歩道の近くに、外から来た人が手軽に休めて常滑の情報を得られる(高速道路の)サービスエリアみたいなものがあればいいんじゃないかなと思ってるんです。同じことは大野にも言えるんですが。そこから旅行者が、望む味や見もの・体験を求めて目指す街や里山に足を運ぶようできれば」と加藤さんは話す。
「古代の人々もここで心と体を癒していたんでしょうね」。
加藤さんの現在の最大関心事は「海からの湧き水」だ。大野は「生魚の御あへもきよし酒もよし 大野のゆあみ日数かさねむ」と、鴨長明がここでの心地よい滞在を詠んだことでも知られる古くからの海水浴場。潮湯治場としての歴史も長い。「尾張名所図会」にも「…あらゆる諸病を治す。是を世に大野の潮湯治といふ…」と記されている。
「海に囲まれている知多で、なぜ大野だけが」と思った加藤さんは、幼い頃二代目の重三さんから聞いた〈すぐ目の前の砂浜にこんこんと湧き出す泉がある〉という話を思い出し、その水を調べてみることにした。今年の夏のことだ。専門家による水質検査の結果は「塩素イオンが海水の三分の一、硬水、PH値はアルカリ性を示すなど浴用に最適」という、各種の史料の記述を裏付けるものだった。「この辺りが陸地となった縄文時代の人々も、ここに集まって心と体を癒したんじゃないかな。そう思うと、なんだかわくわくしてきますね」。浜に立つ加藤さんの頭の中をめぐる歴史ロマン。
さらに摩訶不思議、湧水は暑い夏に何日間か冷蔵庫に入れなくとも変質しないという。有機物を含まないため腐敗しにくいのだ。この水を使った様々なアイデアが浮かんでくる。
現代風の潮湯治場や、スープ、だしに使った料理の町・市のイベントへの提供などなど。
夕食前の加藤さんの口上に、「縄文湧水」のプランが登場してくるかもしれない。
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